2013年6月12日水曜日

『ふたりのイームズ:建築家チャールズと画家レイ』:地に足の着いた真っ当なドキュメンタリ。『来なかった未来』の遊び。あるいは21世紀、私たちの欠落。

映画『ふたりのイームズ:建築家チャールズと画家レイ』ポスター
チャールズ&レイ・イームズのサクセス・ストーリーかと思いきや、落ち着いた眼差しの、真っ当なドキュメンタリー映画です。
二人の華々しい成功だけではなく、普通人としての苦悩や葛藤についても丁寧に描かれていました。デザイナーとして、経営者として、あまりにもありきたりな問題から始まり、夫婦の間のデリケートな問題に至るまで、メディアを通さずに身近でやりとりを観察しているような感じです。
言うまでもなく、デザインの歴史に巨大なインパクトを遺した世界的なデザイナーも、一般的な人間です。
ただ、第一線で活躍するプロは仕事に打ち込む情熱、完成度を求めるハングリーさが想像を遥かに上回るものです。
寺山修司は「歌うミック・ジャガーを観て、誰かが悪魔だと言った。その時、ミック・ジャガーは悪魔になった。自分から悪魔だとはミック・ジャガーは言わない」というような事を書いています。
デザインの世界だけではなく、すべての職業において、大物スターという名誉職があるわけではなく、その実績を尊敬されてこそ、「大物」になる。そういった当たり前な職業観というか、生活や人生の捉え方が、この映画の基調になっているのです。
だから『神のようなデザイナー、イームズが悪戦苦闘の末に後世に残るような成功を修めたサクセス・ストーリー』というような安っぽさと引き換えに、痛みが伴うかわりに多くのことを学び、考えるきっかけになったのだと思います。
少なくとも私にはそういう映画でした。

現役時代のイームズ夫妻にとって良かったことは、とにかく「前例がなかったこと」です。前例がないということは、リスクだけではなくてイメージを伝える事が困難だったりと、色々と大変ではありますが、1からビルドアップしていく機会、今、自分のやっている事がリアルに歴史を作っているような、エキサイティングで、充実した境遇とも言えます。先日の『カリフォルニア・デザイン』展でも、柔軟性を持って社会と密接に関わる「若々しい自由」をリアルに感じました。イームズ・オフィスは厳しいことで有名でしたが、チャールズとレイはもちろん、映画の中で自信たっぷりに語るスタッフたちを見ていると、いいオフィスだったのでしょう。

映画鑑賞後にアップリンク(渋谷)に飾られた『ウッドシェルチェア』を目にすると、感慨深いものがありました。『ウッドシェルチェア』は当時の技術では実現出来なかった椅子ですが、現在の3D成形技術によって完成させたものがこの度、発売されます。当時、この3D成形技術があれば作っていた可能性は大いにありますが、現在、イームズ夫妻が現役だったら、この椅子が作られることはなかったでしょう。一般の人に思いつかない事をしていたのがイームズ夫妻ですから、もっと違った何かを作っているはずです。この椅子には60年代に多く見られるアトミックなデザイン、21世紀の空飛ぶクルマ、タイムマシーンに代表される『来るはずだった未来』を感じます。私は、魅力的なデザインを持ちながら、実際の21世紀には若干の居心地悪さを感じる佇まいが、嫌いではありません。繰り返される試行錯誤とファンタジー、過去(60年代)と未来(現在)のないまぜとなって現れたカタチは「遊び」であり、そういった「遊び」が失われてしまえば、世界は味気ないものとなってしまうと思うからです。

イームズ夫妻は魅力的な二人のポートレートを数多く公開しています。微笑む二人のポートレートからは、オフィスや家庭の様々な問題など微塵も感じられません。彼らが創作する魅力的なプロダクトと生活はその時代のシンボル、大衆が主人公となった時代の、幸福や豊かさの象徴となりました。
豊かさに向かって邁進する60年代当時の明るさの背景には当然、貧しさがあります。(暮らし向きが良くなる、とか)
現在、私たちは物質的な豊かさの中にあって、別の豊かさを探している時代に生きていると思います。
今の豊かさの中に「ないもの」は、イームズ夫妻の時代に「ないもの」とは違うものです。現在の欠落に眼を向け、デザインで解決する事。私は「イームズ夫妻が現在、第一線で活躍していたらそんな事をしているのではないか」という想像をせずにはいられませんでした。


『カリフォルニア・デザイン』展の記事はこちら

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