2013年6月26日水曜日

『Why Not Associates - We Never Had a Plan So Nothing Could Go Wrong 予定は失敗のもと。未定は成功のもと。』:束縛と自由。強烈な目的意識と奔放さを併せ持つ事がインパクトを生む。

展覧会『Why Not Associates - We Never Had a Plan So Nothing Could Go Wrong 予定は失敗のもと。未定は成功のもと。』
ギンザ・グラフィック・ギャラリーにて、ロンドンのデザインスタジオ「ホワイ・ノット・アソシエイツ」の展覧会『Why Not Associates - We Never Had a Plan So Nothing Could Go Wrong 予定は失敗のもと。未定は成功のもと。』を観てきました。スタジオ設立から25年、日本では20年ぶりの展覧会開催です。

「ホワイ・ノット・アソシエイツ」は、「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」の同級生である「アンディ・アルトマン」「デイヴィッド・エリス」「ハワード・グリーンホルグ」が、卒業と同時に立ち上げたスタジオです。どこにも属することなくスタートさせたこのスタジオの作品は、とにかく「自由」であることを強く感じさせます。

「タイポグラフィの旗手」と呼ばれるだけあり、タイポグラフィ作品にはとりわけ定評があります。
展示作品の中には、ひとつの単語内で「ボールド」と「ライトイタリック」を使っているものがありました。私は母国語でないテキストを扱う際に慎重になりますが、このような自由を目の当たりにするとちょっと楽しい気分になります。「正解」や「不正解」を超えたものは、自由を感じさせるからでしょう。

『Why Not Associates - We Never Had a Plan So Nothing Could Go Wrong 予定は失敗のもと。未定は成功のもと。』

タイポグラフィ以外の作品や、「テート・モダン」のポスターデザインにも同様のこと感じました。
例えば「フランシス・ベーコン展」のポスターに、かなり丸みを帯びたユニークなフォントを用いたり、「ヘンリー・ムーア展」では彫刻を黒い背景に赤いライトを当てて撮影したりしています。モチーフを考えると一見あり得ないようなデザインでも「ホワイ・ノット・アソシエイツ」ならありにしてしまえるし、このようなアプローチがあるのかと逆に驚きと新鮮さを覚えます。

そういった伝統的なグラフィックデザインとは一線を画した作品群は常に想像を超えるもので、インパクトがあり、深く印象づけるものとなっていました。マフィアの言葉に「目的はすべての法に優先する」という言葉があります。「ホワイ・ノット・アソシエイツ」のデザインもまた目的達成の為に真摯にヴィジョンの形成を求めるあまり、結果として定型を越えてしまう。その目的意識の強烈さがインパクトを獲得しているのかもしれません。優等生ではなく、ギャングのようなやんちゃな個性を存分に発揮しながらも、クライアントに「BBC」「ヴァージン・レコード」「ナイキ」「ポール・スミス」「ポンピドゥー・センター」「英国王立芸術院」など、名立たる企業やブランド、文化施設が名を連ねるのは、そのようなデザインの力(まさにPowerですね)を充分に理解してのことでしょう。

会場では「デヴィッド・ボウイ」や「セックス・ピストルズ」などのブリティッシュ・ロックが流れ、ありきたりの「アイディア」や「手法」に反発しているようにも感じました。どの作品も非常にハイクオリティで、賞賛すると同時に悔しくもあります。デザインという決められた枠組みの中でも、時には自由に振る舞うことの大切さを再認識させてくれる展覧会でした。
「目的はすべての法に優先する」
要は優先順位を誤るな、という事かもしれません。
一見、自由奔放に見えて、やるべき事は誰よりも把握出来ている。
そんなしたたかさ、奔放さはこの展覧会のタイトルや展示手法にも表れています。
そして何よりスタジオ名にも。

『Why Not Associates - We Never Had a Plan So Nothing Could Go Wrong 予定は失敗のもと。未定は成功のもと。』ポスター
同展覧会のポスター。

『Why Not Associates - We Never Had a Plan So Nothing Could Go Wrong 予定は失敗のもと。未定は成功のもと。』展は、6/29日(土)まで開催されています。

前回観た『ギンザ・クラフィック・ギャラリー』の記事はこちら

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2013年6月21日金曜日

「DTPの勉強会 第10回」のまとめ:『和欧混植』の定義は「和文 = 主」「欧文 = 従」


『DTPの勉強会 第10回』に参加してきました。
今回のテーマは『和欧混植』です。

★メインセッション:和欧混植
スピーカー:木枝 祐介さん(TwitterID:@p_typo
      制作会社勤務。
外国語論文誌や理系書籍等の組版に従事。
○内容
和欧混植に関連する事項を基礎的なところから解説
・和欧混植とは何か
・和文と欧文の構造
・アキと揃え
○キーワード:和欧混植・ベタ組・レタースペーシング・ワードスペーシング・プロトリュージョン・マイクロタイポグラフィ

サブセッション1:Acrobatの意外かもしれない校正方法
スピーカー:朋ちゃん(TwitterID:@tomochan_1974
○内容:
Acrobatのどのバージョンでもやれること、X以降ならではのこと。
校正する時・される時に、よく使っている機能や気をつけている点の紹介

サブセッション2:ちょい足し、Adobe DPS
スピーカー:クロチョコさん(TwitterID:@kurochocon
○内容:
URLスキームやWeb技術を使った、ちょっとだけリッチなFolioの作り方の紹介

「『和欧混植』とは、和文を主とし欧文を従として混植を行うことである。」
というのが、スピーカーである木枝さんの「和欧混植」の定義です。
和文と欧文をそれぞれに美しく読みやすく組むだけでも難問ですが、両方を混在させるのはまた更にハードルが上がります。今回はそんな「和欧混植」についての考え方、捉え方、扱い方、注意点等についての講義でした。

その中で最も印象に残っているのは、「読者にとってそれが幸せであるか」と考えること。「読者の誤読を避ける」ということ。それ以外に、「和欧混植」をする理由はないとお話しされていたことです。これは「和欧混植」に限らず、デザインにも該当する大切なポイントになります。

そして講義の中で、明らかな正解というものはないということも理解できました。「和文」と「欧文」それぞれの組み方に間違いがないというのは前提となりますが、その中で見た目の美しさとバランス、視認性や可読性を追求することが「和欧混植」の重要ポイントであると感じます。

そのテクニックのひとつとして、「濃度を揃える」というものがありました。
「和文」は濃度を揃えず、「欧文」は濃度を揃えるというものです。「仮名」は薄く、「数字」や「アルファベット」が揃っているところは濃くなりますので、濃度のコントロールが非常に重要となってきます。また「和文は点」「欧文は面」と考えると、「仮名」よりも濃いが「漢字」よりも薄いという基準もあります。

「すべては書体のマッチング」で、版面全体での考察だけに留めず、すべてのページ全体での考察は必須だということでした。確認方法としては、じっと見るのではなくボーッと見たり、天地を逆にしたりする等、いつもと違う状態にすることで気づくこと、確認することができます。

たとえ正解がないものであっても、こういったテクニックを知り、より正解に近いデザインを決定していかなくてはなりません。「読者にとってそれが幸せであるか」を前提に、文字の扱いに注意し、その時々の媒体に相応しいデザインする重要性を改めて、確認しました。

『欧文書体 その背景と使い方』『欧文書体2 定番書体と演出法』『欧文組版 組版の基礎とマナー』『文字の組み方 組版/見てわかる新常識』
「和欧混植」を専門に扱った本は現在出版されていないようですが、欧文書体と欧文組版については『欧文書体 その背景と使い方』小林章 著(美術出版社)『欧文書体2 定番書体と演出法』小林章 著(美術出版社)『欧文組版 組版の基礎とマナー』髙岡昌生 著(美術出版社)が良書です。『文字の組み方 組版/見てわかる新常識』大熊肇 著(誠文堂新光社)では、一部「和欧混植」についても触れられています。


前回参加した『DTPの勉強会』の記事はこちら

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2013年6月12日水曜日

『ふたりのイームズ:建築家チャールズと画家レイ』:地に足の着いた真っ当なドキュメンタリ。『来なかった未来』の遊び。あるいは21世紀、私たちの欠落。

映画『ふたりのイームズ:建築家チャールズと画家レイ』ポスター
チャールズ&レイ・イームズのサクセス・ストーリーかと思いきや、落ち着いた眼差しの、真っ当なドキュメンタリー映画です。
二人の華々しい成功だけではなく、普通人としての苦悩や葛藤についても丁寧に描かれていました。デザイナーとして、経営者として、あまりにもありきたりな問題から始まり、夫婦の間のデリケートな問題に至るまで、メディアを通さずに身近でやりとりを観察しているような感じです。
言うまでもなく、デザインの歴史に巨大なインパクトを遺した世界的なデザイナーも、一般的な人間です。
ただ、第一線で活躍するプロは仕事に打ち込む情熱、完成度を求めるハングリーさが想像を遥かに上回るものです。
寺山修司は「歌うミック・ジャガーを観て、誰かが悪魔だと言った。その時、ミック・ジャガーは悪魔になった。自分から悪魔だとはミック・ジャガーは言わない」というような事を書いています。
デザインの世界だけではなく、すべての職業において、大物スターという名誉職があるわけではなく、その実績を尊敬されてこそ、「大物」になる。そういった当たり前な職業観というか、生活や人生の捉え方が、この映画の基調になっているのです。
だから『神のようなデザイナー、イームズが悪戦苦闘の末に後世に残るような成功を修めたサクセス・ストーリー』というような安っぽさと引き換えに、痛みが伴うかわりに多くのことを学び、考えるきっかけになったのだと思います。
少なくとも私にはそういう映画でした。

現役時代のイームズ夫妻にとって良かったことは、とにかく「前例がなかったこと」です。前例がないということは、リスクだけではなくてイメージを伝える事が困難だったりと、色々と大変ではありますが、1からビルドアップしていく機会、今、自分のやっている事がリアルに歴史を作っているような、エキサイティングで、充実した境遇とも言えます。先日の『カリフォルニア・デザイン』展でも、柔軟性を持って社会と密接に関わる「若々しい自由」をリアルに感じました。イームズ・オフィスは厳しいことで有名でしたが、チャールズとレイはもちろん、映画の中で自信たっぷりに語るスタッフたちを見ていると、いいオフィスだったのでしょう。

映画鑑賞後にアップリンク(渋谷)に飾られた『ウッドシェルチェア』を目にすると、感慨深いものがありました。『ウッドシェルチェア』は当時の技術では実現出来なかった椅子ですが、現在の3D成形技術によって完成させたものがこの度、発売されます。当時、この3D成形技術があれば作っていた可能性は大いにありますが、現在、イームズ夫妻が現役だったら、この椅子が作られることはなかったでしょう。一般の人に思いつかない事をしていたのがイームズ夫妻ですから、もっと違った何かを作っているはずです。この椅子には60年代に多く見られるアトミックなデザイン、21世紀の空飛ぶクルマ、タイムマシーンに代表される『来るはずだった未来』を感じます。私は、魅力的なデザインを持ちながら、実際の21世紀には若干の居心地悪さを感じる佇まいが、嫌いではありません。繰り返される試行錯誤とファンタジー、過去(60年代)と未来(現在)のないまぜとなって現れたカタチは「遊び」であり、そういった「遊び」が失われてしまえば、世界は味気ないものとなってしまうと思うからです。

イームズ夫妻は魅力的な二人のポートレートを数多く公開しています。微笑む二人のポートレートからは、オフィスや家庭の様々な問題など微塵も感じられません。彼らが創作する魅力的なプロダクトと生活はその時代のシンボル、大衆が主人公となった時代の、幸福や豊かさの象徴となりました。
豊かさに向かって邁進する60年代当時の明るさの背景には当然、貧しさがあります。(暮らし向きが良くなる、とか)
現在、私たちは物質的な豊かさの中にあって、別の豊かさを探している時代に生きていると思います。
今の豊かさの中に「ないもの」は、イームズ夫妻の時代に「ないもの」とは違うものです。現在の欠落に眼を向け、デザインで解決する事。私は「イームズ夫妻が現在、第一線で活躍していたらそんな事をしているのではないか」という想像をせずにはいられませんでした。


『カリフォルニア・デザイン』展の記事はこちら

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2013年6月5日水曜日

『カリフォルニア・デザイン 1930-1965 -モダン・リヴィングの起源-』:見るべきは作品ではなく、デザインを通して見えてくるもの。

カリフォルニア・デザイン 1930-1965 -モダン・リヴィングの起源-
私の理解ではカリフォルニア・デザインとは、「大衆の為のデザイン」です。「『大衆』は大量生産大量消費の為に、テレビに作られた」という言葉があります。今回のカリフォルニア・デザイン展のポスターに「1930-1965」という時代設定が表記されています。この時代設定を眼にして、『大衆』という概念が頭をよぎったのは、この時代がおそらくはテレビの台頭と合致するからでしょう。

カリフォルニア・デザインの大雑把な背景は、戦地から兵隊が戻ってきたり、新しい産業が次々に興ったりしてカリフォルニアの人口が爆発的に増加。住宅・オフィスが足りなくなって建設ラッシュに。生活・就労人口が増えたのでモノも足りない。プラスティックが誕生して、今まで木工と金属が中心だった工業製品が手作業ではなくて工場で大量生産されるようになる。大量生産が出来るようになると、生産コストが下がる。生産コストが下がると価格も下がる。みんな(大衆)が多くを手に入れられるようになり、家庭や市場にモノが溢れ返る……といった感じでしょう。

移民の流入など他にも色々あるのでしょうけど、様々な要因があり、その結果として「大衆の為のデザイン=カリフォルニア・デザイン」というものが形成された、という理解の順序で大方、正しいと思います。

「大衆のためのデザイン」というと階級闘争的な、政治的・社会的なイメージかもしれませんが、そういう事ではなくて社会事情やテクノロジーの進化が背景にあって、結果としてこうなったという理解が正解だと思うのです。芸術「運動」とは明らかに違うのですね。

事実、この展覧会の展示物は一般的な商品であり、道具であったりします。デザインの背景にある時代の潮流やヒトの歴史を感じながら、あくまでPopであるデザインの数々には、芸術作品とは違った力がありました。例えて言うならば、美術館で本物の絵画に触れる感じではなく、博物館で巨大な化石を観る感じです。作品ではなく、歴史を観ているような印象を受けます。そんな風に「名作絵画を一気に集めた展覧会とは違う」と気付いた時、私にはいつも美術館で観る展覧会とは違ったものが見えてきました。
「デザインを通して歴史を知り、その上でこれからの社会と、デザイナーはどのようにコミットしていくのか?」

会場展示はほぼ時系列で作られていたと思います。ラストの展示物は『Endless Summer』のポスターでした。当然ながら、『Endless Summer』という言葉は「夏は終わる」と自覚したからこそ、生まれた言葉です。
カリフォルニア・デザインが提示してきた価値観、理想や幸福のイメージが終わる、そんな予感が現代にあるのかもしれません。最後の展示物である『Endless Summer』のポスター、そしてアメリカを代表とした「大量生産・大量消費の時代」のシンボルとも言えるカリフォルニア・デザイン展が開かれた事は、その予感の現れかと思うのです。終わるのは大衆ではなく、大量生産・大量消費時代であり、時代は次へとシフトするのでしょう。「幸せ」、「豊かさ」という概念も変わるかもしれません。

デザインはどこにでもあります。だからこそ、社会や歴史についても論理的な理解を深めて、抽象的な思考を獲得していく事が重要です。
平たく言えば「もっとデザインを学ばなくてはならないんだけど、学ぶと言っても美術館に通うだけではなく、目の前の日常にデザインがどうコミットしているのかを考え続ける事が大切なのではないか?」という事です。
「デザインを通して歴史を知り、その上でこれからの社会と、デザイナーはどのようにコミットしていくのか?」
提示される問題は抽象的ですが、デザイナーである私が返す答えは具体的でなければならず、私は具体的な答えを出せるように抽象的な、形の無いものについて、あまりにリアルな目の前の生活を見ながら考え続けなくてはならず……と自問自答の無限ループみたいな感じでより深く掘り下げていく事。なんだか目眩がしそうですが、カリフォルニア・デザイン展にその仕事を展示されていた先人たちはきっとそれをやっていたので、私も同様にやるしかないのですね。

『California Design, 1930-1965: Living in a Modern Way』日本語版
今回の展覧会に合わせて出版された、ロサンゼルス・カウンティ美術館発行の『California Design, 1930-1965: Living in a Modern Way』日本語版(新建築社)。

カリフォルニア・デザイン 1930-1965 -モダン・リヴィングの起源- California Design, 1930-1965: "Living in a Modern Way"

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