2013年5月15日水曜日

「フランシス・ベーコン展」:リアリズム・インパクト・客観。30年ぶりのフランシス・ベーコン。

レインコートを着たフランシス・ベーコン
MoMAで「フランシス・ベーコン」の作品『絵画』を観た時の衝撃は今も鮮明に覚えています。それ以来ベーコンの存在は、私の心にひっかかっていました。そしてついにこの春、日本では1983年以来、30年ぶりの「フランシス・ベーコン展」が開催です。

今回の展覧会は、
 1. 移りゆく身体
 2. 捧げられた身体
 3. 物語らない身体
 4. エピローグ:ベーコンに基づく身体
の4部構成で、身体に焦点を当てた内容になっています。それは身体表現による造形の美しさと共に、ベーコンの「我々は肉である。いつか死骸になる。」という言葉を強く感じさせるものでした。

ベーコンに影響を受けた人の中には、ダミアン・ハーストデヴィッド・リンチベルナルド・ベルトルッチなどがいます。ダミアン・ハーストはベーコンに傾倒し、絵画論や芸術観だけではなく、その作品や手法も影響を受け、デヴィッド・リンチに至っては、「画家のナンバー・ワン・ヒーロー」と言うほどで、彼の映画の中にもその影響が見て取れます。

なぜこれほどまでに観る者を惹き付けて止まないのか。

「暴力性があふれているのは現実の世界であって芸術家の作品ではない。みんな『生』を考えちゃいない。」
というのはベーコンの言葉ですが、一見グロテスクに感じる表現でありながら、そこには絶えず「生」を感じることができるからでしょう。シュールレアリスムの影響もあり、新しい芸術には人々にショックを与える要素が必要だと考え「神経組織を刺激する」フォルムと描法を確立したという部分は確信的です。

また、彼の生涯は激動の連続であったこともあり、作品に影響し反映されていることも多々あるため、その二つを重ね合わせてみることも一つの試みと言えるでしょう。写真集などからモチーフを選ぶことも多かったようですが、彼の恋人(男性)や親しい友人、もしくは本人が激しく歪められキャンバスに切り取られている様は、何とも言えない不思議な感覚を覚えました。

ベーコンは、ほとんどの作品において、ガラスと金縁の額を指示していました。今回の展覧会でもガラスの反射が強く見づらいのは、当時の様子を再現してあるからだそうです。

「ガラスは絵に統一感をもたらしてくれます。ガラスによって、作品と観客の間に隔たりができるのもいいですね。言ってみれば対象を出来る限り引き離したいのです。」
というのがベーコンの希望する展示方法ですが、今回、彼が望む状態で鑑賞できる貴重な機会となっていました。

「対象を引き離したい」というベーコンの不可解な想いを感じながらの鑑賞は、「どのように作品と向き合えばいいのか」を問われている気がしました。知らない事を「知る」時、ヒトは常に異物を呑むような違和感を覚えずにはいられません。知っている事を改めて知る「確認」と「知る」差異は、この「違和感」に尽きると言えます。「知る」に伴うこの違和感は、常にデザイナーに突きつけられる一つ目のハードルなのです。

同展覧会のポスター。

「フランシス・ベーコン展」は、
3/8(金)~5/26(日) 東京国立近代美術館
6/8(土)~  9/1(日) 豊田市美術館
で開催されます。

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2013年5月12日日曜日

『愛、アムール』:シンプルなストーリーに漲る緊張感をもたらすのは、リアリストの眼差し。

映画『愛、アムール』ミヒャエル・ハネケ監督・脚本
観賞後、食事が喉を通らなくなるような作品ばかり作る巨匠、ミヒャエル・ハネケ。誰にでもお奨め出来る作品ではないけど、そのクオリティはいつも圧倒的。本作も「これを観たから今年の映画はこれ一本で良いかな……」とすら感じてしまう出来映えでした。つまり、好き嫌いは別にして誰もが観ておいて損にならない映画です。

「映画とは1秒間に24の嘘をついて真実に迫る方法である」とハネケは言っています。言うまでもなく、すべての映画は虚構です。しかし、ハネケの映画を観るという行為は彼の言葉通り、「一つの真実に触れる行為」と言っても良いでしょう。真実のざらついた感触が、情報ではなく作品に触れたというずっしりとした満足感を感じさせてくれます。この満足はネットにもTVにも存在しない、作品だけが持つインパクトですね。娯楽にインパクトはありませんし、情報に満足はありません。

私の考えではハネケの際立った特徴は「観察眼の確かさ」です。映画に限らず、ハネケほどのリアリストは今、世界を見渡してもあまり類を見ないと思います。

デザインの仕事をしていてデザインの指針が決まる時、つまり問題解決に相応しい枠組みを発見出来た時に「インスピレーションを得た」と感じます。そのインスピレーションを得た感覚は、クライアントが「潜在的に要求している要望の本質を掴んだ」という感覚で、ハネケはそういった本質を掴む能力が圧倒的に高い。その観察眼の確かさ、を今回の映画でも強く感じました。

本作に限らず、ハネケの映画全般は、あまり複雑ではありません。ストーリーは本当にシンプルなものです。しかし、そのシンプルなストーリーには観ているこちらが疲労する程の緊張感が漲っています。リアリストとして仕事をする徹底した姿勢が、シンプルな物語にそのような緊張感を生み出させているのでしょう。つまり、緊張感の正体は「リアリティ」ですね。

これからご覧になる方が本作において注意しなくてはいけないのは、「最後の決断が誰の願いに因るものか?」という事です。ここを読み違えると単なる陰惨な物語になってしまいます。

また、作品中に出てくる「鳩」に注目してください。ネタバレじゃないです。事実、ハネケは主人公がいつも座っている席の側に「鳩の画」を掛けています。つまり、「鳩に注目しておいて」と言っているのです。

以前、観た映画で「人類はどうして見上げるばかりで、見下す事をしないのか?」「足下を見ると、不安になるからだろう」というやりとりがありました。足下とは「今、そこにある危機」ですね。例えば本作で取り上げられた主題は十数年後に私たち日本にとっても「来るべき世界」です。この問題は現在、あまり真剣に考えられていない気がしますが、別に怠けているのでも眼を逸らしているのでもなく、誰も具体的にイメージが掴めていないのだと思います。

ハネケのたいていの作品に共通しているのですが、彼の作品の登場人物は一様に、
・社会的地位が高く、
・相応にインテリジェンスがあって、
・経済的にも豊かな富裕層
です。

つまり、足下の問題とは、お金も社会的地位も知性すらも平等に役に立たない、本質的な問題であり、それは現実であり、真実である、という事です。

……とここまで書いてきて、「真実に触れようとする事」(「真実に触れる事」ではなく)って、なんだか厄介事を抱き込むだけであまり良い感じがしない気分に私自身もなりつつあるのですが……。

それでも「インテリジェンスとは本来どういうものか?」を、最近の私は忘れがちなので、たまにこういうインパクトに触れる事が絶対に必要と感じる、ここしばらくなのでした。口当たりの良い「希望」の味しか知らないデザイナーでは、この先・この時代、仕事になりませんしね。

●映画『愛、アムール』
 監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ

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