2012年12月12日水曜日

『デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス』 : 表現に強さを生むのは必然性

デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス
新作を準備中というデヴィッド・リンチ監督の写真・絵画展に行ってきましたが、意外な事に今回の展示は過去最大級だったそうです。また、10代後半の方が多く来場されていたのが意外でした。例えばパンクロックなどの音楽はいつの時代にも特定の年代に支持されるものですが、かつてはカルトヒーローだったリンチもそんなポジションに行きつつあるのかもしれません。

ところで、展示会のタイトルは『デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス』。らしいといえば、らしいですね。今回はキーワードになっている『暴力』『静寂』について、私なりに考えをまとめてみます。結論から書きますと、タイトル通りに『暴力』と『静寂』、対立するこの二点がリンチ作品のホネになっていると感じました。映画に最も大切なのは主人公と敵、善と悪といった『対立の概念』だそうです。しかし、リンチや映画に限らず、そもそも西洋社会の表現のモチーフのほとんどは『対立』だったりします。そこで今回は「デヴィッド・リンチの『暴力』と『静寂』という対立」に絞って、色々と考えてみました。

リンチの『暴力』について、私がまず思い浮かぶのは、最高傑作『マルホランド・ドライブ』のオープニング、クルマの衝突事故です。衝突事故は言うまでもなく一大事なのですが、その事故も素朴に演出してしまうと、「意外とこんなものか。思っていたほどの画じゃないね」という画面になりがちだと思うのです。しかし、リンチの演出は衝突事故のシーンで「過去にこれ以上、暴力的な事故シーンはなかった」と感じられる演出がされています。(なってしまう?)時間にして二秒もないですし、これは私だけの感じたインパクトかもしれません。しかしこの二秒こそがリンチの持つ表現のパワーをストレートに現している、他の誰にも真似できない一瞬ではないか、と私は思わずにはいられません。

リンチの『暴力』について、次に私が思い浮かべるのは60年代後期のロスを舞台にした犯罪小説です。ケネディ暗殺の真相だったり、ハリウッドのスキャンダルだったり、マフィアが暗躍する小説、作家で言うとジェームズ・エルロイ辺りでしょうか。日本に住む私たちには不条理な世界観に没入するようなリンチの映画は、あまり現実的には思えないかもしれません。しかし、リンチの地元、ロスの人にはとてもリアリティのある世界観だそうです。このリアリティの差異が、ジェームズ・エルロイなんかの小説を読んでいればロスという土地にあるのは間違いないと感じるのですが、それ以上に重要だと思われるのがリンチ特有の恐怖感、『一皮めくれば常に別の世界がある』です。

リンチは幼い頃、グリーンピースが食べられませんでした。「おそらく、外側は張りがあって固いのに、中から飛び出てくるものは違った質感だからだろう」と本人は想起していましたが、実は『一皮めくれば常に別の世界がある』というこの恐怖はリンチの全作品を支配しています。『ブルー・ヴェルヴェット』のオープニングでも美しい芝生の下に蠢く虫のカットを入れていますが、この『一皮めくれば常に別の世界がある』という感覚は、先程の犯罪小説の『面白さ』のキモになっているもので、今回の写真・絵画展はそれら『別の世界』の破片を集めてきたような印象でした。


デヴィッド・リンチから、この展覧会に寄せたメッセージ作品。

『暴力』に対して、『静寂』はサバイバルの手段です。例えば『ワイルド・アット・ハート』のローラ・ダーンの台詞「この世界はワイルドなことばかりで……」や『イレイザー・ヘッド』のラジエーターの中の世界を参考にするのが良いでしょう。また、リンチが着想を得る方法が『ビッグ・ボーイ(ファミレス)でたっぷりの砂糖を摂って妄想に耽る』というやり方であったり、禅を習得しているという事実から、彼が『静寂』をとても大切に思っている事がわかります。世間で思われている『暴力』的、『奇異』なイメージは、彼自身ではなく、彼の恐怖する対象なのでしょう。

今回の展覧会の会場では2012年、ロンドンのフリーズ・アート・フェアで開催されたメモリー・マラソン2012のために制作された『Memory Film』という四分程度のショートフィルムが上映されていました。空爆のイメージに眼を覆っているリンチのもとにゴッホの自画像がヴィジョンとして降りてきて、彼が眼を開くという内容です。このショート・ムービーを観ていると、「ネットを使って効率良く情報を得る」みたいなライフスタイルは一見賢く思えるだけじゃないか、と思いました。何か疑問があったら考える前に脊髄反射的にすぐググる、みたいな習慣は悪習かもしれませんし、ネット上での議論はおよそ生産性のあるものではないでしょう。「自分自身を頼りに経験や技術に聞いてみるのではなく、自分以外のなにかに判断を委ねる習慣」、つまり他者に依存しすぎると、限りなく自分自身というものが希薄になっていきます。そういった希薄さはコミュニケーションに支障を来し、デザインすらもありきたりのものにしてしまう気がします。乱暴に言ってしまえば、「誰が、何を作っても関係ない」もので世界が溢れ返って、本来なくてはならないものが見えなくなって、結果として誰も彼も無価値な世界になってしまうという事です。

リンチの描く衝突事故がいかに衝撃的な衝突に見えるか、その非凡さについて先述しました。しかし、彼は不必要に観客を驚かすつもりはないのでしょう。事実、インタビュアーに彼が写真の素材に選んだヌードについて、「題材としてはありきたりではないか」と聞かれた際、リンチは「…やりたいと思ったらやってみるのが一番だ。まわりがどんなふうに受け取るだろうかとか、驚かせてやろうとか、考え始めたら、すでに方向を誤っていると思う」と答えています。

それでは彼の表現の持つ強さ、決して自分自身が希薄になどなっていない彼の表現方法とはなんでしょうか?「世界とは『一皮むくと常に別の世界がある』、見た目通りではない不安な場所である事を受け入れ、その不安に対処するために誰にも頼らず、自分自身を頼りにする事をまずは心掛ける事。自分自身を頼りにする事とは、まずは自分に問いかけてみる事」そんな何かではないか、と私は思います。よく、成功している会社のユニークな一面なんかがTVで紹介されていますが、そういった会社の経営者の方は自然とリンチと同じ事を実践されているのでしょう。そこに至るまでは多くの不安に悩まされ、二度と味わいたくないような挫折や気が遠くなる程の試行錯誤を繰り返されているに相違ありません。その過程を経てユニークさを獲得したのであって、どこか成功している会社の、例えば有名なGoogleのオフィスのユニークなデザインだけを真似てもGoogleと同じ結果は出せないのではないか、と思います。だから、「日本から何故、AppleやGoogleが生まれないのか?」とかそういう記事を読んで日本はもうダメだ、とか思わない方が良いですね。AppleはAppleだからAppleなのであり、GoogleはGoogleだからGoogleで、他の誰もAppleにもGoogleにもビートルズにもメッシにもピカソにもなれないのです。

『暴力』(不安や恐怖など)には『静寂』で対峙する。『静寂』は自分自身の中にあるのだから、むやみやたらと検索したりしないでまずは自分の中に解決法を探す。そこから生まれた答えや表現だけが、現実に力を得る。なぜなら、そういった答えや表現にはそれらが生まれいずる必然があり、貴方自身に最適化されたものなのだから(これはデザインは問題解決のための手段である、とするデザイナーに偏ったものの見方かもしれません)。

※『デヴィッド・リンチ展』は、12月2日に終了しました。

前回のデヴィッド・リンチについての記事はこちら

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